――重なる真底は 四方の
厳存を
捩る――
パラパラと傘の中に響く雨音を聞きながら、
竜紀は人が吸い込まれていく学食の入り口を、少し離れた木の下で見つめていた。
昼時の学食前の混雑の中で、あの人の姿を探す。
程なく目的の人物が、いつものように工学部棟の方から歩いてくるのが見えた。
竜紀はゆっくりとタイミングを合わせるように、その教授の向かう学食へ足を進める。
中年と言うには未だ髪の色も皮膚の張りも若いその教授は、傘を畳みながら数段しかない食堂への階段を足元を見ずに軽く駆け上がる。
高鳴る鼓動を気取られないように、竜紀は声をかけた。
「
嵩上教授!」
雨音と学生達の声で気づいて貰えなかったら、もう一度呼ばなければならない。緊張して
嵩上教授を見ていると、彼はすぐに振り向いて声の主を探した。
竜紀の視線に気づき、確認するように首を
傾げる。
その動作も、竜紀にとっては更に緊張を高める結果になり、次の声をかけなければならないのに竜紀は固まってしまった。
嵩上は、指で「君?」というように竜紀を指すと、竜紀の返事を確認する前に 学生達の流れに逆らって近付いてきた。
「何か用?」
「あ……」
じめじめと湿度は高いのに、口の中が乾く。竜紀は一度ごくりと唾を飲み込んでから声を出した。
「急いでるのに、すみません。今度、嵩上教授のゼミに入る……」
「ああ。えっと、三回生の……」
多分、名簿だけでは名前と顔は一致していないだろう。そう思って竜紀は名乗った。
「
本橋君」
「本橋 竜紀です」
嵩上の声と自分の声が重なって、竜紀は驚く。
「え?」
「それで、何? 本橋君」
「あ、たまたま教授を見かけたので、挨拶しとこっかなと……」
「そう」
嵩上は、また首を傾げた。
きっと癖なのだろう。
竜紀が頭を元に戻す彼をじっと見ていると、
嵩上は眉間に皺を寄せて言った。
「君、敬語はちゃんとした方がいい」
「は……」
「僕はそういう事には煩い方じゃないけど、それでも就職の事も考えたら、今から注意しておいた方がいいよ」
「はい」
素直に竜紀は頷く。
「それじゃ。A定食無くなっちゃうから」
「あ、はい! すみませんでしたっ!」
「いや。月曜の午後から研究室で顔合わせがあるから、忘れないように」
思わずお辞儀をする竜紀に、
嵩上は走りながら言葉を残していった。
竜紀が頭を上げた時には、
嵩上の姿はもうなかった。
安堵して、ふーと息を吐くと、屋根のあるピロティなのに自分が傘を差したままだった事に気づいた。
嬉しくて、どうやら食事が喉を通りそうにない。
竜紀は自販機で飲み物を買って、そのまま次の講義を受けに向かった。
関東地方
棚谷市。
小高い山がいくつもある、この中核市は神社や仏閣の多い地域であり、また、年中 遺跡があちこちで掘り起こされていた。昨年も市を流れる川の上流で、日本最古のものではないかと推定される恐竜の骨が発見されたり、別の川の近くでは、これまた日本最古ではないかと言われる文明の跡が数年に渡って発掘途中だ。
夜中、竜紀はコンビニのバイトを終え、ゆるい坂の途中にある自分の下宿先のアパートに戻った。
部屋の前で、ゴミ出しに出てきた隣人の美形の男に会う。
「あ、おかえりー。バイト?」
「そ。お前、また夜中に出してんの? 大家がうるさいからやめろよな」
「だって、明日の講義、昼からなんだもん。朝はゆっくり寝てたい」
ふわふわと金色に色を抜いた髪をかき上げて、
朱雀という変わった苗字のその男は竜紀の目を覗き込んだ。
「竜紀が代わりに出してくれる?」
「なんでだよ。バカじゃねえの?」
「この間のアレ、貸しがあるじゃん」
(by りゅうか)
「貸し?」
「誰だかのゼミに潜り込むとか言ってたから、代返してやったの。忘れたわけじゃないよな」
「……忘れてねぇよ」
「あ、じゃあさ、明日、オレのバイト先のコンビニまで迎えに来る……ってのは?」
「ああ? 何じゃ、そりゃ? どんだけ箱入りなんだよ。お前」
綺麗な顔でにっこり笑って「決まりな」と言い置いて、朱雀がゴミを持ち廊下を歩いて行った。
「わっけわかんねぇんだよ」
竜紀は、朱雀の後姿にこそっと悪態をつきながら、鍵を開けて自分の部屋の中へ入った。
靴を脱ぎ、入り口近くにあるスイッチを押して明かりを点ける。
「あ?」
一瞬、点いたライトの反射のように部屋の片隅で、妙な歪みを見たような気がして、竜紀が動きを止めた。
「めまいか? 風邪でも引いたんかな?」
部屋を見回してみても、別に何も異常は無い。目にも異常は無いようだと判断して、部屋の中央に配置された小さな赤いローテーブルの傍に座る。
バイト先で買った夜食と飲み物をビニール袋から出して、そのテーブルに置いた。
「う〜ん。やっぱり、このキャラは和むんだよなぁ」
そのテーブルには、目の大きな笑い顔の、可愛らしいキャラクターが一面にびっしり描かれていて、とてもこの男の持ち物とは思えないものだった。
がさごそと音を立ててビニールを剥がし、『五穀米と三十品目和風バランス弁当』という巨大な弁当を開ける。
「では、いただきまっす」
見かけによらず、意外と真面目に手を合わせ、その巨大な弁当に果敢に挑戦し始めた。
「明日も、
嵩上教授に会えるといいなぁ」
竜紀は、にへらにへらと笑いながら呟いた。
翌日、前日から振り続く雨の中、竜紀は午前からの講義に出る為、アパートを後にした。
(by 藤棋)
竜紀の住むアパートと大学はありがたいことに徒歩圏内である。
バイト先のコンビニを抜けて、しばらく続く緑の回廊を過ぎると、レンガ造りの古びた講堂と、打ちっ放しのコンクリートの無機質な校舎が見えてくる。
そこで、竜紀は友人の戸田に会った。
「たーつき。おはよう」
「おう、戸田。っはよ」
「今日も朝からよく降るよな。早く終わればいいのにさ」
鬱陶しい雨に戸田が顔を顰める。彼の自慢のハネハネヘアーには雨は天敵なのだ。
「そう? 俺は結構好きだぜ?」
傘を差す、
嵩上教授が。
教授のその姿を想像して、竜紀はへらっと笑う。
「竜紀に早く会わなきゃ、と思うと、お前って大抵俺の目の前にいるよな」
「あ? なんだそれ」
「ほれ、昨日の戦利品だ」
そう言うと、戸田は持っていた紙袋を竜紀に手渡す。
見かけによらず、ゲーセン大好きの戸田は、行ってはクレーンゲームの景品を竜紀にくれる。
竜紀の部屋にあった赤いローテーブルもそのうちの一つで、つい先日、夜中にたたき起こされて渡された一品であった。
「おっ、さんきゅ〜」
見た目はワイルドなのに、なぜかファンシーグッズが好きだという竜紀と、取るのが趣味で、景品はいらない戸田の、需要と供給が一致して生まれた不思議な友情だった。
「一限の殿田教授のロボット工学ってマニアックだよな」
「すぐ脱線するから面白いじゃん」
「殿田教授、今度市と提携して竜型のロボットの開発をするらしいぜ」
「マジィ?」
「大マジ。恐竜の化石がいっぱい出てきたから、
町興しでなんかやるんだとさ」
他愛のない話をしたまま、講義室への階段を登っていく。
グラリ。
もう少しで踊り場へ出るところで、昨夜の感覚が竜紀を襲う。
「竜紀?」
足を止めた竜紀に、戸田が振り返る。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
まだ視界が揺れている。
「悪い、先行って席取っといて」
階段の手すりにつかまって下を向く竜紀が気になったが、「大丈夫だから」と言われて、戸田は後ろ髪が引かれる思いで先へ行った。
(風邪? 貧血?)
遠くで始まりのベルの音が聞こえる。
身体の感覚がどこかおかしい。
なんだろうか、この宙に浮くような感じは。
顔をなんとか上げると、ぼんやりと
嵩上教授の姿が見えたような気がした。
「きょ……じゅ?」
無意識に身体を動かした瞬間、バランスが崩れ、竜紀は一気に階段から落ちて行った。
(by たかだ)
とっさに
嵩上に向かって伸ばした竜紀の手は掴まれる事はなかったが、確かに嵩上からも手が伸びてきたのを見た。
「のわっ!!」
激しく何かにぶつかる感覚と同時に、地面に強打されるはずの背中からは間接的な痛みしか伝わって来ない。
「いてぇ」
背中の方から先程と同じ声。
「あっぶね! 本橋、大丈夫?」
「本橋君!」
竜紀は自分が乗っかっている小さな同級生の
垂野によりも、自分の名前を呼んで階段を駆け下りてくる嵩上が気になった。
垂野に助けられて間接的とは言え、階段を十段ほど落ちてしまった体が少し痛む。足は強打したらしく、すぐには立てないでいると、垂野が悲鳴を上げた。
「本橋、どいてくれよ! 重いぃぃ」
「あ。悪い。いっ……て」
動こうにも足の痛みで思うように動けない。
すぐ傍に嵩上がしゃがんで、竜紀の顔を覗いた。
「大丈夫? 医務室に連れて行こうか?」
嵩上が竜紀の腕を掴む。竜紀は心臓が跳ね上がる程に、内心狂喜した。
「い、いや……ちょっと打っただけだから。ひ……ひねってもないし」
慌てて声を出すと、素っ頓狂につかえた。
「良かった。ほら、下敷きになってる人も辛いだろうから。立てるかい?」
「はっ、ハイ!」
嵩上に掴まれた手に体重を預けて、竜紀はゆっくり立ち上がった。
「本橋、医務室について行ってやるよ」
俺がついて来て欲しいのは、お前じゃねぇ――
助けてくれたと言うのに、男の割りに可愛い印象の垂野には目もくれず、竜紀は嵩上だけをじっと見ていた。
「あ、じゃあ、頼めるかな。えーと、君」
名乗るなよ。印象付けるな――
嵩上に関しては、何故か、垂野に関わって欲しくないと思った竜紀は
「大丈夫っすっ! もう平気!」
と、両手を大げさに振って見せた。
嵩上の表情が気になって仕方が無い。さっきから自分の期待以上に、自分を心配してくれているような顔をしている……気がするのは、思い込みではないと思いたい。
人のいい垂野は、そんな竜紀の思惑には当然気づかず、心配そうに言った。
「じゃあ、講義室まで付いて行ってやるよ。どこ?」
「あ、ロボット工学の」
「三階だな。了解」
もっと嵩上と話したいが、授業はもう始まっている。上を見ると、なかなか竜紀が来ないので心配して見に来た戸田の姿も見えた。
「えっと……嵩上教授」
「大丈夫なら良かった。気をつけなさいね」
とても背の高い嵩上は、にっこり笑うと(竜紀視点)、ひらひらと手を振ってそのまま階段を下りていった。
竜紀は「大丈夫? 何があった?」と言いながら階段を下りてきた戸田と、垂野に感づかれないように顔は上へ向ける。視線は嵩上に固定したまま。
嵩上の明るい緩やかなウェーブのクセ毛が完全に視界から消えるまで、竜紀はわざとゆっくり階段を上った。
(by りゅうか)
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【TRILL 01】