そろそろかな?って思った。
兄貴の同級生で俺の2年先輩にあたる近江小太郎(おうみこたろう)先輩に、受験勉強目的で家庭教師に来てもらって、約一か月経つ。
家庭教師と生徒という関係にもお互いに慣れてきた時期で、勉強にも飽きがくるこの時間帯…今なら違和感も少ないはずだ。
「…小太郎先輩ってさぁ、」
俺に自作して来てくれたテスト用紙を渡し、『できたら言えよ』と言ってコタツの向い側でベッドを背もたれ代わりにして本を読んでいた先輩を意識しつつも、視線はテスト用紙に落としたままそこで言葉を切った。
「…ん?」
案の定、先輩が読んでいた本から俺に視線を移し、どこか分からないとこでもあったか?と言いたげに片眉を上げ、縁なし眼鏡をクイッと上げたのが気配で知れる。
俺は顔を上げてコタツの上で頬杖を付き、これでもか!というほど無邪気な笑みを浮かべて聞いた。
「初めてキスしたのって、いつ?」
「はぁ!?」
滅多に見られない、クールビューティーで有名な先輩の驚いた顔。
縁なし眼鏡の奥の目を見開いて、まじまじと俺を見つめ返して来るこの顔が見れただけでもラッキー♪って思った。
「ね、いつ?」
「…木ノ下弟こと木ノ下雅也(きのしたまさや)、その質問はそのテストに必要か?」
「うん!」
俺はドキドキして今にも爆発しそうなほど高鳴っている心臓を気取られないように細心の注意を払いながら満面の笑みで頷き返し、あきれ顔で今にも『却下』の一言で片付けてしまいそうな先輩の先を遮って、言葉を続けた。
ここで終わらせてなるもんか。
「だって、教えてくれないとテストやる気になれないんだもん」
「お前な…」
「いーじゃん、教えてくれたって減るもんじゃないでしょ?それともあれ?小太郎先輩って、実はキスもまだとか!?」
「ば…っ!ふざけんな、それくらいとっくの昔に…!」
「だよね、ね、いつ?いつ?」
「だからなんで、」
「ちょっとした気分転換!受験勉強ばっかりじゃ煮詰まっちゃって効率上がらないって!ね?」
コタツの上の狭い卓上で身を乗り出した俺は、好奇心いっぱいの目をキラキラと輝かせて先輩を見つめ返した。
そんな俺の顔をあきれた眼差しで一瞥した先輩が、持っていた本をパタン…と閉じた。
「…小6の時。以上。そら、答えたぞ、さっさとそのテスト…」
「小6!?へぇ〜!相手は?年上?同級生?」
「…同級生だよ、そら、もういいだろ…」
「それって初恋!?どんな風なシチュエーションだったの?」
「…忘れた。いい加減にしてそのテスト…」
「うそだぁ!ホントは覚えてるでしょ?教えてよ〜〜!」
当たり障りなくとっとと終わらそうとしているのが見え見えの先輩に、俺はそうはさせじ!としつこく食い下がった。
「木ノ下弟…」
「あー!またそういう風に呼ぶ!俺は兄貴の付属品じゃないって何度言えば分かってくれるんですか!はい、その分のペナルティってことで質問に正直に答える事〜!」
そう、いつも先輩は『木ノ下弟』って呼んで、雅也ってちゃんと名前で呼んでくれない。
無理やり家庭教師を頼んだのだのも、そんな風な付属品扱いから、きちんと一人の人間として先輩に認識してほしかったからなんだ。
でも、そう言った途端、先輩の怜悧な瞳が一瞬ゾクッとくるような輝きを放った気がして、俺は『え?』と目を瞬いた。
「ふーん…ペナルティねぇ。人がせっかく弟扱いでセーブしてやってるって言うのに…」
薄い口元に悪い笑みを浮かべた先輩がそう呟くや否や、なんかやばそう…!と本能的に身を引こうとした俺の腕を掴んで自分の方に引き寄せた。
「こ、小太郎先輩…?」
「この俺にペナルティだと?随分となめた口を利くようになったじゃないか?え?雅也?」
いきなり変わった口調。
今まで俺の前でこんな風にちょっと悪ぶった口調や笑みなんて、見せたことなかった。
いつも親切で優しくて面倒見がよくて凄くまじめ…家庭教師を始めたこの一か月間もずっとそうだったのに!
それにさっき、弟扱い?セーブしてた?って言った?え?それって…?
背筋が震撼する…っていうのはこう言う事か!と、この時思った。
腕を掴んだ先輩の手の力は半端なく強くて、これって地雷踏んじゃった!?って、一瞬で笑顔が凍りついた。
けど…!
先輩の整った綺麗な顔が目の前に迫って、その上、こんな間近で『雅也』って呼んでもらえるなんて…!
って、むしろ怖さなんかよりそっちの喜びの方が大きかったりする俺ってどうよ?
「一方的な質問攻めはフェアじゃないだろ、雅也。お前の初キスはいつだよ?」
「え!?お、俺!?俺は…えっと、その…」
そういう風に切り返されることも予想して用意しておいたはずの答えが、答えが!頭の中からぶっ飛んで真っ白だ。
だって、目の前に、憧れの先輩の顔があって。
俺の目線のまん前に、今まで何度も頭の中で妄想してキスしてきた先輩の唇があって…!
今までの妄想が一気に駆け抜けて、俺は茹でダコの様に耳まで真っ赤になってしまった。
「なんだ…お前、ひょっとしてまだしたことないのか?」
「そ、そそそんなこと…!!」
「俺に嘘ついたら宿題のプリント、あと10枚追加な」
「10枚!?うっそ、それ勘弁…!」
「じゃ、正直に答えな。したことないんだろ?ん?」
勝ち誇ったような笑みを浮かべた先輩が腕を掴んでいない方の手で俺の顎を捕らえて上向かせ、親指で俺の下唇をスル…ッと撫でつける。
うわ、うわ、ちょっとそれ、何か凄くエロいんですけど!先輩!!
ドクドクと痛いほど脈打つこめかみのせいで、俺の頭は完全に血が上りパニック状態。
俺の成績が上がれば家庭教師のバイト料上乗せ…っていう話に付け込んで、ちょっとだけでも先輩を誘惑出来れば…!なんて思ってた俺の想定範囲外!で。
もう、どうしていいかさっぱり分からなくなった俺は、正直に叫んでしまっていた。
「し、したことないです…!」
「18にもなって?まじかよ?」
「悪いですか!?」
「いまどき居るもんなんだな…天然記念物並みだろ、それ」
妙に感心したように言った先輩の言葉に、恥ずかしさと悔しさで何だか分かんないけど涙が滲んできた。
「おいおい…んなことで泣くか?普通?」
「だって、だって悔しいじゃないですか!先輩なんか適当に答えただけのくせにぃ〜!」
「心外だな、さっき言ったのは本当だぞ?」
「ウソだ、絶対ウソだぁー!」
「ホントだって。覚えてちゃ辛いから、忘れることにしてたのによ…」
ため息交じりでそう言った先輩が、不意に捕らえたままだった俺の顎にかけていた指先に力を込め、グイッと持ち上げた。
「こたろ…先輩…?」
「思い出させたお前が悪い」
「え…?」
「ついでに、そんな可愛い泣き顔を見せたお前が悪い」
「え?」
「だからこれはそのペナルティ…」
言いながら近づいてきた先輩の顔が有り得ないほどドアップになったかと思ったら、妄想の中では決して感じる事のなかった温かな体温と柔らかさが、唇に触れた…!
「ん…っ!?」
うそ…!これって、先輩にキス、されてる!?
下心ありで振った初キス話題だったけど、まさかホントにキスしてもらえるなんて…!
嬉しさよりも驚きの方が勝って、思考も何もかもが停止した。
下唇を食む様に重なって来た先輩の唇が、啄ばむ様に何度も触れて乾いていた唇をしっとりと湿らせていく。
妄想してたのよりずっと心地良いその感触に、思わずうっとりと眼を閉じた。
もっと…!と薄く唇を開いた途端、侵入してきた生温かく濡れたモノ。
え?え?こ、これって!先輩の…舌!?
その衝撃の感触に思わず逃げを打って逃げようとした俺の顔を、先輩の指先がそれをさせじと一層強く食い込んで逃げられないように固定してしまう。
呼吸すら忘れ、全部の五感が口の中をまさぐる先輩の舌の動きに集中する。
驚きで縮こまった俺の舌先に触れ、ゆっくりとなぞるように先輩の舌が誘ってくる。
そのざらついた違和感と共に感じた、お尻のあたりがむず痒くなるような感覚。
そのむず痒さが次第にゾクゾクとした電流みたいな何かになって、背筋を駆け上がってくる。
誘われるままにおずおずと舌先を伸ばすと、意地悪な舌先がゆっくりと焦らすように離れて行った。
「は…っ、ぁ、は…、っ…」
離れると同時に流れ込んできた新鮮な酸素に、忘れきっていた呼吸を思い出して、俺は先輩の腕にしがみついて思い切り息を吸いこむと、荒い呼吸を何度も繰り返した。
「おいおい、お前、息継ぎくらい鼻で出来るだろ…」
プ…ッと吹き出した先輩が、笑いを噛み殺しながらそんな風に言う。
「む、無理です…!頭の中、真っ白…で…っ」
「冗談かと思ったら、ホントに初めてだったんだな…!で、どうだった?初キスの感想は?」
「な…、か、感想!?」
真っ赤になりながら顔を上げた途端、ニヤリ…と意地の悪い笑みを口元に浮かべた先輩の顔が視界に飛び込んでくる。
その口元はまだ濡れ光っていて、これ見よがしに先輩がその薄い唇をぺろり…と舐めた。
そのエロい仕草にさっきの心地よさが蘇って来て、カーッと頭に血が上ると同時に背筋を甘いゾクゾクとした痺れが這い上がってきた。
「おーおー、真っ赤になっちゃって。可愛いねぇ、ま・さ・や君?」
「な、な、何言って…!」
「ほら、正直に言っちゃえよ。気持ち良かっただろ?」
「ぅ…、」
「あんなの序の口だぞ?その先はもっと気持ち良くなる」
「え!?もっと…!?」
思わず勢い込んで聞き返してしまって、先輩はコタツに突っ伏して大笑い…!
俺は真っ赤になったまま硬直する始末だ。
「雅也…!お前、すっげぇ可愛い反応すんのな、祐希(ゆうき)とは大違い…!」
「え、祐希って…」
それって、俺の兄貴。
何?どういう事?まさか先輩、兄貴にもキスしたことが…?
「くくく…!笑いすぎて腹痛い。なぁ雅也?続き、してほしいか?」
「え!?」
先輩のその言葉に、兄貴との疑惑なんてぶっ飛んだ。
「そのテスト、全問正解したらしてやるぞ?」
「全問正解!?そんなぁ〜!小太郎先輩、俺の学力がどの程度か一番分かってるくせにー!」
「ああ、知ってるさ」
にや…と笑った小太郎先輩が指先を伸ばして俺の顎に手をかけ、親指の腹でくすぐる様に唇を撫でつける。
「だ・か・ら。だろ?」
「こ、小太郎先輩の悪魔ーー!」
「どっちが!俺をその気にさせたんだ。きっちりやって、やらせろよ」
「や、やらせろ…って!先輩…!!」
「ほら、テスト。死ぬ気で解けよ」
そう言い捨てた先輩が、再び本を開いて視線を落としてしまう。
でもね。
分かってる。
先輩は、凄く親切で優しくて面倒見が良い人だから。
こうやって、どうしても解けない問題と先輩とを交互に見つめてたらさ、絶対、パタン…て本を閉じるんだ。
そして。
溜め息交じりに縁なし眼鏡をクイッと上げて…ほら、やっぱり俺を見る。
「ペナルティならいくらでも受けるからさ、教えて、小太郎先輩♪」
「…この、小悪魔め」
〜終わり〜