初めは小さな芽であっても、それはだんだんと膨らんで、やがては大きな花や実を付ける。
ミシェルに生まれた恋心も、いつしか大きなものへと変化していた。
恋というフィルタで通してみるジェラルドはとても素敵なのに、彼ときたら鈍感でミシェルの気持ちに気付こうともしない。男同士だから当然と言えば、当然なのだろうけれど、ちょっと悔しい。いや、ちょっとどころではなく……物凄く、悔しい。
「あの日、なんで戻ってきたの?」
恋心が生まれた日、ジェラルドは一度図書館を出たはずなのに、また戻ってきた。
忘れ物など無かったはずだ。
それを問うてみると、ジェラルドはにこりと笑った。
「あぁ、ミシェルの仕事が終わりそうもなかったから夜ご飯をサーヴィスに頼んでおこうと思って、何がいいか聞きに戻ったんだよ」
八つ当たりして追い出しのは自分なのに、彼は…そういう優しい人だった。
益々胸が温かくなり、そして益々想いが募る。
そうして、膨らんだ恋心に針で穴を開けられる日も…早くに訪れた。
「え、彼女…ですか?」
「ああ。どうも学校でマナーを教えている講師と付き合っているらしいのだが、君見たことないかい?」
そう、訊ねてきたのはジェラルドの父親だった。
仕事で呼ばれたときの世間話の一つにそれが出てきたのだ。
最近仲良くしているようなのでよろしく頼むということと、小耳に挟んだ息子の恋人の話。
「いえ、ジェラルドから聞いたことは…ないですけれども……」
「まったく不相応な女と付き合ってからに……」
貴族の娘は家で優雅に習い事などをするべきものだ。働くなど下賎の者のすることだ。そういう風習の時代、働いているというだけで女性は好感を持たれない。
「あっ、それではこの資料お預かりしていきます。明日にはお返しできると思います」
「おお、すまないね。宜しく頼むよ」
ミシェルは適当なことを言って、そこから逃げ出した。自分の足音だけは軽いのに、身体は鉛の様に重い。
いたんだ。
やっぱりいたんだ。
だってこんな素敵な人だもの。
心は苦しいのに、顔は笑わなくちゃいけない。
嫌われたくない。
そんな想いからか、ミシェルは時折頭痛を起こすようになった。それもジェラルドと一緒のときだけだ。
頭を引っ張る髪に自由を与えるとそれが軽くなるので、ついジェラルドと一緒のときは髪を下ろし梳いてしまう。
そうすると、ジェラルドはいつぞやのようにミシェルに見入る。
一度、震える声を抑えて「何?」と聞いてみたら「綺麗だな、と思って」と微笑むのだ。
彼に恋をしているミシェルは益々彼に胸をときめかす。
でも、ミシェルは素直にはなれない。彼の、今までの積み重なってきた強がりが、邪魔をする。
「そういう台詞は彼女に言ったらどうなの?」
「うーん、ヴァネッサもチャーミングだけれど、綺麗さだったら君のほうが上だからな」
「……そっ、それって男に対する褒め言葉じゃないからっ」
「そう? 綺麗なものは綺麗って言っていい気がするけれどな」
ジェラルドはカラカラと笑い、ミシェルを見て「やっぱり綺麗だ」と頷いた。
恥ずかしさを隠そうと髪を払い、睨みあげると微笑み返される。
嬉しさと同じぐらいに、自分だけヤキモキさせられることに腹が立ち、ミシェルは益々頭痛を強めたのだった。
一度だけ、窓からジェラルドと彼女のヴァネッサが一緒にいるのを見たことがある。茶色い髪が特徴の知的な顔をした女性だった。
ジェラルドは少し年上の彼女に甘えているようで、自分には飄々とした年上面を見せている彼が彼女にはこんな顔を見せているのかと思うともどかしい。
そんな状態であるのに、ジェラルドの口から、時々彼女の話が出る。
ミシェルが心の闇を深めているのに、彼は構わない。構わずに、ミシェルを綺麗だと褒めたり、ずっと見ていたりするのだ。
なんでこの人はこんなに僕を苦しめるのだろう。
付き合っている人がいるのに、なんで微笑を浮かべてあんなこと言うのだろう。
僕がどんな想いをしているか、なんでわからないの?
ミシェルは自室で人知れず涙を落とした。
他人を想って、初めて、泣いた。
ジェラルドがミシェルと親しくなってから二ヶ月ほどが経った。
いつもの様に図書館の一角に備え付けられている机の方に向かっていくと、ミシェルの話し声が聞こえてきた。他の文官と仕事の打ち合わせをしているようだった。
ジェラルドは無意識に本棚の陰に身を隠した。そこでまたサラサラとしたミルクティの髪をミシェルがかきあげる仕草に魅入ってしまう。
(やっぱりミシェルは髪を下ろしているほうが似合う)
そう思う気持ちと、
(そんな無防備な姿を見せているのは自分だけではないのか)
という、失意がジェラルドの中を駆け巡っていた。
一瞬だけミシェルと目が合い、くすりと笑われた気がして、その顔が何故か頭から離れなかった。
あの笑みが現実のものだったのか、それとも幻惑のものだったのか、気がつけば、ミシェルのことばかり考えていた。
気がつけば…ミシェルの唇に自分の唇を押し当てていた。
ミシェルは相変わらずの顔で「気にして…ないから」と言った。
色々な葛藤を胸の内に秘めさせながらミシェルの仕事の手伝いをしていたときの出来事だった。
「最近、よく髪を下ろしてるね」
ジェラルドは目下にゆれる甘い香りに魅了されていた。ミシェルは振り返りもせずに「そうだっけ?」と感情なく言った。「そうだよ」と言い返したい所をこれだから学生は子供なんだと思われないために必死で我慢する。必死すぎて、声が裏返った。
「ほ…ほら、今日だって下ろしてるよ」
本棚と自分の間にミシェルを挟み、その柔らかい髪を掬い取った。絹のような手触り。口付けてうっとりと眼を閉じる。可愛らしい形の唇にキスをしたら、もっと甘くて蕩けてしまうだろうと思ったときには勝手に体が動いていた。彼の髪を強く引いたのだ。
「ジェラルド……?」
彼の行動に驚いてミシェルが振り返った瞬間、ジェラルドの大きな手をミシェルの細い肩に置いて…屈み気味に唇を奪った。
甘い、甘いミルクティ。
マシマロの唇も、吐息も、想像した通りの甘さ。
ミシェルは何が起きたか分からずに、目を見開いていた。随分と長い間そうされていた。
ゆっくりとジェラルドの熱が離れ、ミシェルはただ、呆けたように彼を見ていた。
ミシェルが唇に指を押し当てながらそうしていたので、ジェラルドは自分でも何故そんなことをしたのかと必死に考えた。だがいくら考えても先ほどの感触だけが彼を支配してしまう。
柔らかかった。
甘かった。
そして、まったく嫌ではなかった。ミシェルも自分も男なのに……と思ったところでようやくアッと声を上げた。
男が男にキスされて気持ち悪いと思われたら、気持ち悪いと思われたらと想像するだけで体が熱くなる。
「ゴ、ゴメン。俺…あれ……なんでだかわからないんだけど……。と、兎に角ゴメン!」
ミシェルはおぼろげだった瞳をパチリと瞬かせると、「気にして…ないから」といつもの様に微笑んだ。
その顔を見てジェラルドは顔を引きつらせて笑った。
なんで、この一言がそんなにショックなのだろう。気にしてないといわれて…なんで泣きそうになるんだろう。
「そっか、気にして、ないのか。そうか、そうなのか……」
いつまでも口の中で何度も言葉が呟かれた。
ミシェルはまた本棚の方を向き、時折唇に指を押し当てながら作業を続けた。その指が震えているのにジェラルドはまったく気がついていなかった。精一杯の強がりだったことに気付くには冷静さが足りていなかった。
幾日かが経ち、過去を振り返るようになったジェラルドだが、冷静になるのと同時にあることに直面した。
それはミシェルへの気持ちの変化だった。
先日言われた「気にしていない」というミシェルの言葉。自分が気にしているのに相手は気にしていないと言われると余計に気になってしまい、ジェラルドは意識をしてミシェルを見るようになった。
そしてなんて綺麗な人なんだろうと改めて思った。
知れば知るほど、ジェラルドはのめり込む。
その危うい美しさに。気高さに。いじらしさに。
恋人のヴァネッサはそのことにいち早く気付いていた。
「あなたいつもミシェルのことばかりよね。私と一緒にいてもそれしか話題がないの? そんなにミシェルがいいならミシェルのところにさっさと行って。もううんざりよ」
ジェラルドにしてみれば他愛もない会話の一部だったはずなのに、何かある事に話題に出されたヴァネッサはそれが許せなかったらしい。「さようなら」と言葉を強めて去っていく彼女の後姿を見ても動けずにいた。いつもならば走っていって甘い言葉を囁いて……とするだろうに、ジェラルドはただ、呆然としていた。
そのままフラフラと歩いて、気がつけば図書館にいた。無意識にそこに向かって足が動いていた。
窓際のいつもの席に座るミシェルの姿。
唇に指を押し当てて考え事をしていたミシェルがこちらに気付いて小首をかしげて笑う姿に…胸の高まりが止まらない。
「どうしたの? 座ったら?」
「あ、うん」
ミシェルは荷物をまとめて彼のスペースを作ってあげると髪をゆったりとかき上げた。そのまま指で梳いてやんわりと束ねると、上目で彼を見る。
誘うようなその表情に胸の奥をぐっと掴まれた。
にこやかにジェラルド以外の人間と喋ったり、無防備な姿を見せたりされるたびに心苦しくなった。
この笑顔が自分以外に向けられるのが嫌だと思った。
また見てる。
注がれる熱視線にミシェルは顔を上げられずにいた。
ここ数日、ジェラルドの様子がおかしかった。
先日ふらりとやってきて以来、どこか変だった。
何をしても必ずジェラルドの視線が追ってくる。目が合うと弾かれたように別に移っていくそれに覚えがあった。
その名前は恋心。
名前を口にするだけで切なくなる。
出会って間もない人だけれど、彼は今、ミシェルの心の奥深くにいる。
一度だけ苦しくて泣いた。
一度だけ、キスされて…悲しくなった。
好きな人にそんなことされて、嬉しくないわけがない。悲しくないわけがない。
実らぬ恋なのだから。
届かぬ想いなのだから。
ずっとそう思っていた。
諦めていた。
なのに。
なのに彼は、ジェラルドは強くミシェルを抱きとめてくる。
キスされたときの様に図書館の本棚の奥まったところで、背後から強く。
「ミシェル……」
熱っぽい声にミシェルの胸は張り裂けそうになった。
聞きたい。
その続きを。
だけど、聞きたくない。
だって……。
「俺、やっと気付いたんだ……」
掠れた男らしい声に体の震えが止まらない。
「好きなんだ」
あぁ、ついに……。
胸元に巻きつくジェラルドの制服の上着を握った。
そうでもしてないと、膝から崩れ落ちてしまいそうだから。
「俺、ミシェルのことが好きなんだ。男同士で気持ち悪いと思われても仕方がない。だけど、もう自分の気持ちを押しとどめておくのは限界なんだ。君を俺だけのものにしたいんだ」
「だって、ジェラルドには……」
「ヴァネッサなら振られた。いつもミシェルのことばかり考えてた俺が嫌なんだと言われたよ。そう言われるまでミシェルへの気持ちに気付かない俺って馬鹿だよな。だけど…だけど良かった。彼女には本当に申し訳ないことをしたけれど、この気持ちに気付けて良かった。ミシェルに好きだって言えて…良かった。ミシェルは俺のことどう思う? 嫌われてない自信はあるけれど、いざ君の前に立つと、その自信さえも無くなっていくんだ……」
彼の熱の篭った声がミシェルの服に吸い込まれていく。
ぐるりと体を回され、再び正面から抱きしめてきたジェラルドのその広い背中に手が伸びた。
彼の胸の中で瞳を閉じた。
嬉しくて仕方ないはずなのに、どこか渇いていた。
ジェラルドの気持ちをようやく自分に向けてもまだ満足できなかった。
だって、君は分かってないはずだもの。
僕がどれだけ苦しんだか分かっていない、そんな顔なんかして……
一人だけ幸せそうにして…憎らしい。
ねぇ、ジェラルド。
君は僕と同じだけ、想ってくれた?
僕を想って、眠れなくなったことがあった?
切くなって泣いたことがあった?
君の言葉に、態度が僕の中にいる別の人を目覚めさせてしまった。
胸の奥からその人の…僕の声が響く。
ねぇ、ジェラルド。
君はもっと苦しむべきだよ。
僕と同じぐらい苦しむべきだよ。
僕が味わったのと同等のジレンマを与えてあげるよ。
君に焦がれて焦がれて狂いそうになっていたあの苦しみを、貴方にも味わわせてあげる。
僕と同じだけ、苦しんだら……初めて応えてあげる。
――好きだよ、と。