「夢なのか、耳に聞こえる現実なのかわからないんだ」
綺麗な顔を少し歪めて、神妙な声で言うから、また後遺症で具合が悪いのかと思って訊いた。
「眠れないの? 幻聴とか?」
赤い瞳の視線だけをこちらに向けて、ナスタは答える。
「いや。幻聴にしては」
そのまま、また目を泳がせる。
窓際で、もう夕刻になろうとする茜色の空から溶け出してくる光に、ナスタの白い肌とシャツが染まる。
薄い金色の髪は光るのをやめて、影だけを色濃く浮き上がらせていた。
「どんな音が聞こえるんだ?」
「音……じゃない」
「声?」
「かな。一回なら夢だっただろうと思えたんだが、昨夜もまた同じ声が聞こえたから」
ふと、不安になった。
もしかして、ナスタの傍に誰かいるのか?
自分ですらまだ許されていない、丸まま一晩を彼と一緒に過ごすという特権を、自分以外の誰かが?
「だ、れの?」
うわずった。
それに気づかないフリをしようとしたらしく、ナスタは少しうつむく。
へぇ。気を使ってくれたりするんだ……
罵声を浴びせられる事の方が絶対に多いけど。
「心配するな。人間の声じゃない」
「……そっちの方が怖いんですけど」
まだ、どんな深い闇が彼の細い体に埋もれているのだろう。
詮無いことだと知りつつも、胸が痛い。
「だから、心配するな。そういう声じゃないんだ。その……」
「うん」
「……ゃあって」
「え?」
顔を突き出して聞き返す俺を、ナスタがじろりと睨む。
先にクギを刺しているらしい。
「うん。真面目に聞いてる」
ナスタは、口を少し尖らせて、言いにくそうに言う。
「……そんなモンでもないんだが。その……みゃぁ……って」
「みゃあ?」
「ああ」
「みゃあ?」
「繰り返すな」
「……猫じゃないの?」
「我が家には猫はおらん」
「殿下の声とか」
「うーん。いや。アーシュは居なかった」
「鳥かな」
「さあ。詳しくない」
実のところ、マジメに聞く、とは言ったが、噴き出しそうだった。
ナスタの口から。
"みゃあ"
ヤバイ。どうしよう。おかしい。
いや、かわいい。
こんな会話ができるとは思わなかった。
マズイ。嬉しい。
「あだっ!」
努力して極力表情を崩さないようにしていたのに、ナスタには気づかれて、結局 顔面パンチを食らった。
鼻を押さえた指に、血が付く。
「いったいなぁ! もう」
毎度の事とは言え、そのうち鼻の骨が折れるんじゃないだろうか。
「もう帰れ」
睨んだまま、ナスタが言う。
「冗談じゃないよ。初めて家に入れてもらえたのに」
「失敗だったな」
「ちょっとー。付き合ってるなら、お互いの部屋に行くくらい」
「そういう馴れ合いは嫌いなんだ」
「どうしてよ」
「……今みたいな事があるからな」
「何。あ、ひょっとして」
何だ。見られたくない表情があるから?
考えが読まれたのか、またパンチが飛んで来る。
今度は避けた。
そのままナスタの右手を引き寄せて、抱きしめる。
一瞬、ナスタの体が揺らぐ。
殴られる?
いや、手は自分の胸の前にある。
しばらくそのままで居たが、ナスタも動かなかった。
ふと、足元を見ると、窓から入る光で自分達の影が長く部屋の床に伸びていた。
影は一つ。
もうちょっと、夕日に溶けたい。
溶けて、ナスタと融合できないかな。
力を少し入れて強く抱く。
ナスタの鼓動が自分のお腹あたりに響いている。
ナスタが怒り出すまで、このままで居よう。
次に家に呼んでもらえるのも、いつになるかわかんないし。
ナスタの心臓の音と、微かに聞こえるナスタの呼吸の音しかない。
今なら、"みゃあ"が聞こえても不思議じゃない気がした。
〜終わり〜
(2007.9.6)