「気付いたんだ。俺は、君が好きなんだということを」

 ずっと欲しかった言葉だった。

 彼の熱の篭った声が僕の服に吸い込まれていく。
 抱きしめられて、その広い背中に思わず手が伸びた。
 嬉しくて仕方ないはずなのに、どこか乾いていた。
 彼からこの言葉を聞いたらきっと泣いてしまうだろうと思っていたのに……。



 その乾きの正体に気付いたとき、僕は僕でなくなった。

 爽やかな風が抜ける石の回廊を音を立てて歩く。
 ようやく制服に慣れてきたがこの靴にはまだ慣れない。
 履くのも面倒だし、ヒールが細いので歩き辛くもある。

 ミシェルは今、王城で祐筆係として働いている。
 ミシェルは貴族の子息のみが入学できる王立学校には入れたものの、その上の大臣を育成するクラスには上がることを許されない程度の貴族の長子で、憧れていた王城で働くことをすっかり諦めていたはずなのに、偶然自分の書いた手紙が王の目に触れる機会があり、その字の美しさを見初めた王が「卒業後は祐筆係として王城へ上がるように」と直々に声を掛けてくれた、ラッキーな男だった。

 王族以下、大臣の文を代筆するのが彼の仕事。何通りかの筆跡を使い分けることができるため、二人の人間から同じ相手に文を送っても、一人の祐筆係がそれを認めたと気付かれることはない。
 早くからその才能を見出され、ミシェルは城の中である地位を確立していた。

 そのことからミシェルは王や大臣の部屋へ自由に出入りする事を許されていた。彼らの部屋でなくては見ることの出来ない外交上の資料もあるからだ。それは殆どが秘密資料で、それを隅々まで知りえているミシェルは一生この城で過ごすことになっている。

 そんなミシェルに声を掛ける者は多い。
 王族や大臣に取り入ろうとする輩。大臣たちを失脚させようとする輩。ミシェルの持つ知識には様々な利用価値があった。
 さらには彼の美貌がネックだった。
 卵の様な小さな顔。生命を湛える湖に似た瞳。ミルクを注いだような紅茶色の髪はその色のせいか甘いにおいがする。
 王室直下の文官だけに許されている制服をミシェルは華麗に着こなし、それはまるで彼のためにあつらえたかのようで、フリルの多い襟元も、控えめな色合いのジャケットも、彼の美貌を浮き立たせるためだけに存在していた。
 仕事中はゆったりと束ねた髪を跳ねさせながら歩いていると、男女問わずに声をかけられてその容姿を賞賛される。求愛も多い。
「仕事中ですので」
 と、笑顔でやんわりと拒絶することにも最近は慣れてはきたものの、未だに彼らを煩わしく思う気持ちは拭えない。

 声を掛けられたくないからと早足で歩きたくてもこの靴のせいでそれがままならず、ミシェルは重々しい溜め息をつきつつ、できるだけ足早に図書館へ向かった。祐筆にあたり色々と調べるものが多いため、そこが彼のもっぱらの棲家になっている。


 その図書館の前に来たとき、一人の長身が立ってるのに気付いた。
 時計を気にしながらあたりを伺っている。
「もしかして、図書館に御用ですか? すみません、鍵は僕が持って行ってたんです」
 ミシェルは彼の行動を察し、少し走り出した。
 途端に腕の中に入っていた書類が踊りだし、前へ前へと行き急ごうとする。
「うわっとととと」
 長身の彼が慌てて前に出ると、書類ごとミシェルの体を受け止めた。
 ふんわりと、優しい春の匂いがした。
「ご、ごめんなさい」
「こちらこそ、ごめん。急がせちゃったみたいで」
 男がすまなそうな顔をすると、ミシェルはやんわりと首を横に振った。
「この靴が原因かも。ちょっと動きにくいんで」
「本当だ。デザイン重視なんだね」
 時折金に光る瞳で見つめられ、ミシェルはそこで二人は顔が近いことに気付いた。慌てて離れ目を覆っていた髪を払い自分を落ち着けた。
「あ…あの、今開けますから」
 頷いた男は、ミシェルが行くことの出来なかった、末の大臣を作る上級貴族の子らだけが行くことの出来る学校の制服を着ていた。


 ミシェルはいつもの様に人のいい笑みを浮かべ、話し始める彼との間に一つ膜を張る。だがすぐにそれを回収することになった。
 彼はミシェルを取り巻く人々とは少し違っていたからだ。
 城で働く人たちも、親でさえも彼の容姿や才能を賞賛して止まず、学生時代に友と言う形で繋がっていた人間にも「ミシェルはいいよね」と、それは本心で言っているのか問いたくなるようなことを言われてきたのに、彼はまずそう言うことがなかった。

「ミシェルっていうの? へぇ二十四じゃ俺の一つ下だね。なのにきちんと仕事していて尊敬するよ。去年の俺は、何してたっけかなぁ。覚えてないなぁ。それほどつまらない毎日を送ってたってことかな?」
「そうなんですか?」
「そうだよ。毎日代わり映えしなくて退屈……って…あっ、俺はジェラルドって言うんだ。齢はさっきも言ったようにそろそろ勉強に飽きてきた二十五歳だよ」

 長身の男はミシェルから荷物を奪うと、何故か少し後ろを歩きながら自己紹介など始めてくる。
 今まで一緒に歩く人は態と隣に並んできて体を摺り寄せてくるような輩ばっかりだったので、ミシェルには彼の行動はとても新鮮に映った。
 そんな彼のペースは独特で、そしてとても暖く、だからつい巻き込まれてしまっても、何故か笑顔で居られた。

「くすっ」
「ん?」
「いえ、なんか面白い人だなぁって」
「俺が?」
 小首を傾げるジェラルドをチラリと見てから、ミシェルが眉を潜めて口元に手を当ててこっそりと言葉を紡ぎだす。
「あなたの後ろにいる血まみれの人ですよ……」
「イッ!!!」
 髪を逆立てて勢い良く後ろを向くジェラルドを見てミシェルは益々笑った。そこでようやくジェラルドは自分が騙されたことに気付く。それでも怒らずに、焦り顔のままミシェルの隣に並んで唇を尖らせた。つまらないことに驚いた自分が少し気恥ずかしいようだ。
「ひ…酷い人だな、君は」
「くすくすくす」

 ちょっと傍にいただけで、彼の人となりが見えてくる。礼儀正しく、真っ直ぐで、お育ちの良さがよく現れていた。
 彼の瞳の色にずっと見覚えがあるなぁと思っていたら、たまに祐筆を頼まれる大臣のものと同じだった。良く見れば髪の色も同じで、顔も良く似ている。ジェラルドはエリート中のエリートなのだとミシェルは知った。

 だが自分の身分を驕らない、自分という存在だけを主張するジェラルドを見て、自分と同じ匂いを感じた。

 触れたときの春の匂いではない。


 孤独、という寂しい匂いだった。
 ジェラルドも少しの時間でそれを嗅ぎ取ったのだろうか。それから、よく図書館とミシェルのところへ通う姿が見られた。



 ジェラルドは図書館で自分の読みたい本や課題に使う本を探したり、ミシェルの仕事の手伝いをする。
 ミシェルは小柄なので背の高いジェラルドが来ると、普段取れない本をここぞとばかりに取ってとせがむ。ジェラルドも「いいよ」の一言でそれに付き合った。お礼に自分が探している本の在り処を聞いたり、論文作成のアドヴァイスを貰ったりする。ふたりの関係はフィフティ・フィフティ。言葉にはしないけれど、それが暗黙のルールだった。

「へぇ、分館の本は殆ど読んだんだ」
「あまりにも古い専門書はちょっと無理だったけれどね。だからこっちに出張してきたんだ」
「僕も学生の頃は足繁く通っていたけれど、ジェラルドに会ったことはないよね」
「そうだね。ミシェルみたいに綺麗な顔している子だったら会ったら忘れないんだけれどな」
「え?」
「あ、でもどこかで擦れ違ってても、本ばかり見ていたから気付かなかったのかな。勿体無いことしたな」
 ちらりとジェラルドを見た。彼は鼻歌交じりにペンを動かしていて自分の言葉など大して気にも留めていなそうだ。
 ミシェルはジェラルドの口からでた『綺麗』という言葉に反応てしまった自分を羞じ、溜め息をついた。

 気分を変えようと首元でやんわりと一つに髪を結い留めていた紐を引き、サラリと後ろに流す。ミルクティ色の髪がゆったりと揺れ、小さな顔を縁取った。
 前回、隣国の大臣と遣り取りした手紙と、自分が書いたものの下書きを見比べ、大臣の言葉を繋いでいく。
 卵の様な柔らかい色みの下書き帳に向かっていたら視線を感じた。
 チラリと目線だけ動かすと、ジェラルドがじっとこちらを向いているのが見える。呆けたようなそれは…見惚れている顔。

「ジェラルド」
「……っ!」
 ミシェルの甘い声に、弾かれたように我に返る。
「あ…れ?」
 自分でもその行動の理由が分からずに、ジェラルドは顔を引きつらせながら不思議そうにしている。
 その様子に少しがっかりして、そしてジェラルドにまるで「綺麗だ」と言って欲しかったような心に気付き益々がっかりして、ミシェルは溜め息を吐いた。イライラが止まらずに、不思議顔のジェラルドについ辛らつな言葉をかけてしまう。

「疲れたならもう帰ったら? 暗くなってきたしね」
 態と窓の外を見て、彼から視線を外す。目を見るのが恐かった。
「……そう、だね。そろそろ帰ろうかな」
 同じように外を見たジェラルドの声は少し落胆したものだった。その声にミシェルは胸が痛む。
 別にそんな想いをさせるつもりではなかったのに…八つ当たりをしてしまった自分を羞じたがもう遅い。

 ジェラルドは手早く本をまとめブックバンドで締め付けると立ち上がった。
「また明日ね」
 ジェラルドはミシェルにそう声を掛けると長い足で大またに歩き去っていく。
「また、此処で……」
 小さな言葉は彼に届く前に落ちてしまった。
 知り合って未だ日の浅い一つ年上の人。
 だが、今まで知り合った誰とも違うペースで自分と歩んでくれる人。

 こんなに気になるのは、何故なのだろう。ちょっと、珍しいから? 他にいないタイプだから?
 そもそも、なんで自分はこんなにジェラルドのことを考えているのか。今まで他人を気にしたことなどないのに!


 珍しく乱暴な手つきで髪を再び結わくと、ミシェルはジェラルドの荷物があった部分に、彼の温もりを全て取っ払うかのように自分が仕事で使う資料を置いた。パラパラと本を捲っていると、その本に影ができる。
 眉を潜め顔を上げると、数人の文官が立っていた。
「やあミシェル」
「どうも……」
 好意の欠片も無い挨拶が飛び交う。
 真ん中のリーダー格の男はニヤニヤした顔でミシェルを見下ろしていた。

「彼…どうやって誑し込んだんだい?」

「……」

 どう答えても言葉尻を捕らえるだろうから、ミシェルは黙っていた。
 ミシェルが頭角を現し始めた頃から因縁をつけてくる文官たちだった。その原因は嫉妬。自分たちよりも家柄の良くないミシェルが他の文官や大臣の覚えめでたく、自分たちよりもはるかに高い位置を歩んでいることを妬んでいるのだ。

「やっぱりその顔だよね。顔と字の上手さしか取り得が無いくせに調子に乗ってるんじゃないよ」
「そうそう。子息を手玉にとって親に口利きしてもらおうって魂胆だろうけれど、バレバレだからね」
「これだから階級の低い貴族は困るね」
 文官たちは口々にミシェルを罵倒して回る。
 ミシェルはただ黙って下を向き、彼らが飽きるのを待った。

「またいつものだんまりだ。泣き叫べば少しは可愛げがあるってのにさ」
「感情すら持たずに生まれてきたんじゃないかい? こいつの親だってどうせ……」

 陰口を堂々と叩いていた一人が突然に言葉を詰まらせた。
「……あの…その……」
 明らかに様子がおかしい。
 ミシェルは顔を上げると、「あっ」と小さく驚いたまま固まった。

 その視線の先には、ジェラルドが居た。
 憤怒の表情でミシェルを罵っていた文官たちを見ている。
 貴族の階級とやらに弱い彼らだ。大臣の息子と言うジェラルドに睨まれて縮み上がっている。
「彼が誰と仲良くしようが君たちに何か関係があるのかい?」
「いえ、そ…の……」
「俺はミシェルが好きで、話をしに来るんだ。楽しい時間を過ごしに来ているんだ。君たちの様に無粋な人間に会って嫌な思いをするために来ているわけじゃない!」
「すっ、すみません!」
 一人がわたわたと逃げ出すと、残りの文官もこけつまろびつ逃げ去っていく。


 ジェラルドは、ぽかんと口を開いているミシェルの隣に腰を下ろし、そのまま彼の体を抱きしめた。
「ジェ…ジェラルド?」
 おっかなびっくり、彼の背を抱きしめ返すと、僅かに震えていた。横隔膜がヒクリヒクリと動いている。
「君は…悔しくないのかっ」
 そう呟いたジェラルドは…泣いていた。
「俺は悔しい。君がいつも一生懸命頑張っている姿を傍で見ているから分かってる。なのにあいつ等と来たら君を妬み、あることないこと…ましてやご両親のことにまで……! 家柄など関係ないと、優秀であれば誰にでも上に立つことができると君自身が証明してみせているのに、なぜそれがわからないのだっ」
 彼の精一杯の声を振り絞る。鼻がつまり聞き取りにくいが、彼の心に、言葉にミシェルの胸の奥が熱くなった。

 見ていてくれる人がいる。
 自分の働きを、努力をきちんと見てくれる人がいる。

  「ジェラルド……」
 しゃくりを上げる背中を、ゆっくりと撫ぜた。

 上から、下へ。

 何度も、何度も。

「ありがとう」

 ミシェルの心に、ジェラルドと言う人が刻まれた瞬間だった。
 暖かくて、少しきゅんとする感覚。




 それは、小さな恋心の始まりだった。