【アルトダ・ガフィルダ】
TOP |
NEXT
-3-
私が一番恐れた人物は、ナスタ殿下だったのかもしれない。
城に来た時、目の届く範囲に母の姿はなかった。
地位も権力もない自分がとれる母を捜す手立てといえば、同僚や上官から母に関する話を聞く事だった。
元々真意を隠して相手から物事を聞き出すのは得手であったのか、最初のうちは難なく情報が入ってきた。
母がダナヤ王の付き人だった事、母は王にとても信頼されていたという事。
そして、皇太子殿下の乳母を務めた者であったという事。
皇太子殿下の乳母になったのは王のご指示だったらしい。
それを聞いてすぐ、自分が養子へ出された理由がわかった。
殿下を育てるために、母は私を養子へ出した。
王は自分の息子、皇太子を育てさせるために、彼女から実の子供を引き離したのだ。
だがそれを知っても不思議と、王や皇太子殿下に対して憎しみの気持ちは湧かなかった。
権力者ならば当然の行動だと思う。
もし自分が国王だったならばそうしていたかもしれないし、自分が排除される側の立場であっても、その命に従っていただろう。
仕方ない事なのだ、と。
よく自分に母の事を教えてくれた上官は、話をしている時、とても穏やかな表情だった。
ナシム元少尉は気立てが良く、働き者で、素晴しい人物だった、と彼は言っていた。
その姿を全く知らない自分にとって、母に関するどんな話も大切だった。多くの情報を必要としていた。
自分は想像力が豊かな方でも感受性が強い方でもないのだが、まだ見ぬ母の姿は、とても鮮明に映って心の中から消えなかった。
その理由は何より、兄との生活が現実となった事。
それが自分が考えていたよりもずっと、幸福をもたらしてくれた。
だがしかし、私の想像も上官の笑顔も、最後までは続かなかった。
皇太子殿下の乳母となった後に、彼女の夫――私の実父が病死し、その出来事がきっかけで彼女は城を去ってしまったらしい。
真意を隠しながらもどこへ行ったのかと聞いた私に、上官はこうとしか答えなかった。
「わからない」
そして、「ナスタ様なら何かご存知かもしれない」と。
その日から、私はナスタ殿下の行動を気にかけるようになっていた。
はじめは無意識のうちに。
だが、伍長として情報収集を任され、上層部との接触が多くなってからは、その無意識は意識へと変わり、疑念に変わった。
城内のありとあらゆる資料を見ても、母の行き先が書かれていなかったのだ。
不可解だと感じた事は、それだけではない。
ナスタ殿下の態度と、兄がごくまれに見せる辛そうな表情。
他の者とナスタ殿下の間に、微かな歪みがあるように思えてならなかった。
しかし、まさか自分から殿下へ「皇太子の乳母はどこへ」なんて率直には聞けない。
今思えば、聞かなかった事が正解だったのかもしれない。
あの時はただ、怖かっただけだった。
自分がナシムの子である事が知られれば、恐らく城にいられなくなる。
そう考えると、何も言い出せなかった。
だが、私が真実を知る事になったのは、それからそう遠くはなかった。
偶然が仕掛けた悪戯とでもいうのだろうか。
あまりにも残酷で、辛すぎる真実だった。
深夜。
ガフィルダは書類の整理を終え、ひとつ、大きく息を吐いた。
昼間からずっと書庫で頼まれた仕事をしていた。通常の勤務時間はとうに過ぎている。
時間内では終わらないとは思っていたものの、予想より大幅に遅れてしまっていた。
だが、頼んだ相手は、彼ならば確実に作業を終わらせてくれると信じて、仕事を持ち込んだのだろう。
ガフィルダが短期間で伍長にまでなれたのも、そんな彼の勤勉さが認められたからだった。
事実、彼はとてもよく仕事をしている。
作業の能率、的確な表現で文章をまとめ、書類を作成する能力には秀でたものがあった。
そして、彼の意欲的な姿勢が特に好評を博していた。
既に周囲は彼が「アルトダ家」という旧家のつてでここに入った事を忘れているだろう。
彼は実力で、伍長「アルトダ・ガフィルダ」として誰もが疑わない人物になったのである。
真実では、その行動が必死で実母を捜すためであったとしても。
ガフィルダが書庫を出ると、城内は真っ暗だった。
静か過ぎる不気味な空間。鳥の声も聞こえない中庭の横を通り、彼は足早に自室を目指していた。
自分の靴音だけが響く廊下。
「…?」
ガフィルダの目に微かな明かりが漏れている部屋が留まった。離れた場所からであったが、軽い気持ちで戸の隙間から覗いてみる。
「……」
見えたのはベッドで男女が愛し合う場面だった。
ベッドサイドで光るランプの光が、二人の肌を薄く照らしている。
どちらからとなく抱き合うその男女を、ガフィルダは悲しいまでに冷静な眼差しで見ていた。
二人が誰であるかはこの距離からは確認できない。だが、ガフィルダにとってそれも興味の対象ではなかった。
ただほんの少しだけ、孤独を感じる。
自分は誰にも心を許せない。ああやって、誰かを心から愛する事もできないだろう。
それが、ただ欲望から生み出される行為であっても。
「……」
一歩、足を引き、ガフィルダは再び歩き出した。今度は心なしか音を立てないように。
朝霧の安らぎ、昼間の喧騒、そして夜に広がる無言の闇。
どれもガフィルダは好きだった。城内を包む様々な空気のすべてが神聖であり、心地よい。
これで母の行方がつかめたのなら、とガフィルダが思ったところで、不意に足が止まった。
「?」
乾いた物音が聞こえ、前方に広がる暗がりの中に人影が見える。
先程の光景を目撃してしまったからか、ガフィルダは近くの物陰に身を潜め、気付かれずにやり過ごそうと考えていた。
こちらへは光が来ていないため、相手はガフィルダの存在に気付いていない。
「……!」
ガフィルダはその人影を確認して目を見張った。
「(ナスタ殿下!)」
射し込む微かな月光を集めて輝く、その金色の髪。
冷たい足音を響かせながら、ナスタが歩いて来る。表情はいつもと同じようであったが、いつもより無表情にも見える。
そして、ガフィルダは新たな靴音に気付いた。
ナスタが向かっている先、地下へ下る階段の前に、ある人物が立っていたのだ。
「!」
その人物を見て、ガフィルダの体に再び緊張が走った。そこにはただうつむいてナスタを迎える、カルナラの姿があった。
「……行くか」
ナスタはそれだけ言うと、そのままカルナラの横を通り過ぎ、階段を下りていく。
カルナラも無言のまま、ナスタの後を続いて地下へと消えていった。
「(あの先は確か……)」
二人の靴音が聞こえなくなってから、ガフィルダが階段へと近付く。
地下へと真っ直ぐに伸びる階段。
微かに明るくなっているところを見ると、誰かが地下室で作業をしているのは間違いないようだ。
だが、地下には古い資料を置いた倉庫と、もう使われなくなって久しい空き部屋しかない。
城内の者も滅多に行く事がない。殿下であるナスタにはなおさら用がない場所のはずであった。
「……」
ガフィルダは頭を下げ、足元から奥へと続いている闇を見て思う。
……こんな時間に二人は何をして……
二人が会っているところを見ると、なぜか不安になる。
この階段を下ったら、何を知る事になるのだろう。
それとも、何も知らないままなのだろうか。
後を追ってそれを確かめるべきなのか。
自分は、どちらを望むべきなのだろう。
考えがまとまらず、ただ時間だけが過ぎていった。
その間も心に、先程見てしまったカルナラの表情が引っかかって消えない。
「…」
しばらくその場に立ち尽くしていたガフィルダは、決意したように顔を上げた。
そしてゆっくりと息を吐き、呼吸を整えると、静かに階段を下り始めた。
一歩一歩進んでいくにつれて、鼓動が早くなる気がする。
夜の闇に対して不安になっているのか、一度足を踏み入れればもう二度と戻れないような気もした。
やっと階段を下り切ったところで、ガフィルダが辺りを見回した。
二人の姿はどこにもない。
真っ直ぐ廊下を進み、部屋がいくつか並んでいるところで、微かな声が聞こえた。
「!」
ガフィルダは声と反対の方へ走り、冷たい壁に体を押し付ける。
こういう行動がなぜか得意になってしまった自分に、助けられていると有難く思いながらも、若干呆れてしまう。
だがそんな感情も、再び聞こえた声に消え去った。
「……また来月だな」
ナスタの声が廊下にはっきりと響き、続いて何かの物音がする。
「なぜ……」
いつもより低いカルナラの声。
ガフィルダは少しだけ足を踏み出し、物陰から二人がある壁の前に立っている事を確認した。
「なぜ? わかりきった事を聞くな、お前は」
ナスタが血の通わない声を出す。
「会うのが辛いか? ならば、たった二度の面会もやめようか?」
「いえ…!」
小さく、それでも強くカルナラが答える。悲痛そうな声だった。
その声を聞いていたガフィルダの脳裏に、不吉な想像が及ぶ。
――来月?
――面会?
――なぜ?
――ナスタ殿下は何を言っているんだ?
ナスタは壁へ向かい、他とは若干様子が違った場所へと手を伸ばした。
何か仕掛けをほどこしたようだったが、ガフィルダからはよく見えない。
しかし、その光ははっきりと見えていた。
微かに響いた衝撃音と共に、幻想的な青色の光が壁へと射し込む。
そして光が静まった時、行き止まりであるはずだった灰色の壁は、まったく別の空間に繋がる扉となっていた。
「……!」
目の前で行われた光景に、ガフィルダはただ唖然とするしかなかった。
ナスタが開け放たれた扉の前に立ち、カルナラへ笑いかける。
「ほら…同じ城内にいられるだけ幸せだろう」
「……」
「お前が何も喋られなければ、この中にいるあの女も殺されずに済む」
――あの女?
――誰だ?
――誰が……あの中に……
「ですが、あれでは………」
カルナラの声を止めるように、ナスタが彼の肩へ手をかざした。
ガフィルダはそのやり取りを横目で見ながら、小さく息をのむ。
「おかしな行動をすれば、お前の母親は死ぬぞ。この奥に幽閉されたまま、朽ち果てるようにな」
「!」
――えっ………
「………」
カルナラが何も言わず、ただ、頭を垂れる。
ガフィルダはナスタの言葉が信じられなかった。だが、カルナラの様子を見て、早まっていた呼吸が凍りついたように止まる。
「(!……う、嘘だ……)」
カルナラがナスタの言葉を否定しようとしなかった事。それがガフィルダへ、全てが真実であると教えたのだった。
「心配いらない。食事も与えている。……私が許す限り、あの女は生きられる」
カルナラへ、ナスタは冷たい視線を返す。
その瞳、その言葉。
今のナスタの全てが突き刺さってくるようで、ガフィルダは耐え切れずに胸元を押さえ込んだ。
「お前はシザークの事だけを考えていればいい」
ナスタの冷静な声が響き渡る。
カルナラを見つめ嘲うように笑っていた口元は、いつの間にか苦しげに閉ざされていた。
「…もう下がれ。他の者に気付かれる」
ナスタは自身の表情を隠すかのように振り返ると、その腕を壁へ向け、光を集め始める。
美しい閃光が辺りを照らし、開かれた入り口をかき消していく。
再びナスタが振り返った時、カルナラは真剣な面持ちでナスタを見据えていた。
「わかってるな。お前は――」
「……はい」
呟くようなナスタの声に、カルナラが表情を変えないまま答える。
「……」
靴音が聞こえて、すぐに遠ざかっていく。
ガフィルダは壁に寄りかかり、身を縮めるのも忘れ、呆然としていた。
幸いにも気付かれなかったようだ。
完全に足音が消えてから、ガフィルダがゆっくりと視線を戻す。
ナスタがその場を離れた後も、カルナラはしばらく、目の前の厚い壁を見つめていた。
そして一言だけ、呟く。
「……母さん」
……!
ガフィルダの全身は凍りついたまま、動かなかった。
再び、兄の姿を見る事もできない。
ただ、立ち尽くしていた。
血の気が引いたように、手が冷たい。
しかし、身震いすら起こらない。
「また、来られる……から」
ガフィルダの耳に届くカルナラの声。
優しく語りかけるようではあったが、無理をしているようで、くぐもっている。
暗く、悲愴な声だった。
「……」
微かに咽ぶような音が聞こえる。
ガフィルダには、それがカルナラのものだったかどうかはわからなかった。
彼には見られなかったのだ。
その、母の前では見せぬように堪えていただろう、兄の辛そうな顔を。
人の気配がなくなって、ガフィルダは意識を取り戻したかのように物陰から飛び出した。
急いで壁へ駆け寄ってみるが、やはり何の仕掛けも見えない。
ただの、普通の壁。
壁に触れようとした手が、自然と止まってしまう。
「……!」
恐怖を感じる。
変哲もない壁だと思っていた方がいい。
自分では開けられぬ事を、確信しない方がいい。
その方が、自分を壊さずに済む。
あの時、ナスタが言った言葉。
「わかってるな。お前はシザークのため…私の弟のために生かされている」
――なぜ
どうして
ナスタ殿下が 何を考えているのかわからない
母を閉じ込め 兄を束縛し それが 皇太子殿下のため……?
どうして母が幽閉され どうして兄が……?
わからない……!
ガフィルダは無言のまま、壁から後ずさった。
混乱と悲しみが体に染み込んでくる。
声も出せず、ただ涙だけが頬を伝っていた。
頭に浮かぶ辛そうに目を伏せるカルナラの姿。そしてそんな彼の前で見せた、ナスタの恐ろしい表情。
今も離れぬその光景に、嘔吐感さえ覚えた。
自分の目に映った現実が、真実であるかさえわからない。
真実ではなかったら、どんなによかったか。
部屋へ戻ったガフィルダの耳元に、再びナスタの声が甦る。
想像していた母親の姿を、ぐちゃぐちゃに歪まされたような気がした。
照明が落とされた真っ暗な部屋で、ガフィルダはうな垂れたまま、ただ泣いていた。
周囲には気付かれぬようにか細く、カルナラと同じ、母を呼ぶような声で。
――母が自分を知らなくても構わない
ただ どこにいたとしてもいいから 会えなくてもいいから
幸せに 暮らしていて欲しかった……
TOP |
NEXT
-3-
Copyright © 2002
竜棲星