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【アルトダ・ガフィルダ】



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-4- 

 あの時から私は、自然と兄を避けるようになっていた。
 ナスタ殿下とは顔を合わせる機会が多いため、自分の意思とは関係なく、その顔を見なくてはならない。
 だが、兄を避ける事は容易だった。
 提出する必要書類を別の者へ頼み、廊下ですれ違った時も頭を下げるだけで何も話さなくなった。
 自分からすれば兄を避けている事になるのだが、この心情が兄を含め、第三者に気付かれる事はないだろう。
 もしこれが、シザーク殿下と兄との関係であったらわからないが。



 ずっとナスタ殿下の事を考えていた。
 恐らく、母が幽閉されている事は事実だ。
 だが、その理由がわからない。
 ナスタ殿下が何を考えているのか、なぜ母と兄に、あんな仕打ちをしているのか。

 この時の自分は、冷静に物事を判断できたか、定かではない。
 考えれば考える程、目の前が真っ暗になっていくようだった。
 兄に自分の事を告げようか。しかし、そうすれば自分もどうなるかわからない。
 自分だけではない。
 閉じ込められている母も、シザーク殿下のそばにいる兄も。

 自分は、どうすればいいのだろう。何ができるのだろうか。

 きっと、何もできない……。
 母をあの暗闇から助け出す事も、兄を苦しみから解放する事も、私の力ではできそうにない。
 そして、兄に真実を告げる事もできない。

 本当の兄弟、なのに。


 誰か…いるのだろうか。
 この揺るがない歪んだ真実を、変えられる者が。

 あたたかい"何か"を、与えてくれる者が……。


「…わかった。後は任せる」
 ナスタは書類を机へ置くと、ひとつ息をついた。目を閉じ、軽く目元を押さえる。
 今日はずっとこの調子だ。執務室で大臣達に囲まれながら、近日中に行われる交渉に関する書類を検討していた。
 現在は、ナスタが国王代理として国の中枢に関わる執務を行っている。目の前にある書類の束が、その証であった。
「ナスタ様、この件は如何いたしましょうか」
 大臣達が入れ替わりにナスタと話をしている中、ガフィルダは部屋の一番奥で、その様子を見つめていた。
 書類を見るナスタの表情は、仕事をしている時のガフィルダと同じで無表情にも取れる。
 ガフィルダは勤務についている間だけでも、あの時の記憶を呼び起こさぬように徹していた。真実を知った、あの夜の事だけは。
「……伍長、先日の結果を」
 セテ准将がナスタの方を向いたまま、背後へと声をかける。しかし、ガフィルダはその呼びかけに気付いていない。
「伍長」
「……」
 反応がない事に苛立った准将は、振り向いて最後の一声を出した。
「アルトダ伍長!」
「は、はい!」
 我に返ったガフィルダが慌てて書類を手に取る。准将は無言でそれを受け取ると、再びナスタへと向き直った。
「……」
 ナスタがガフィルダへ目を向ける。深紅の瞳に映る、やや疲れた彼の姿。
 その視線の方向に、大臣達も言葉を止めていた。
 だが、ナスタが何も言わず視線を書類へと戻したので、そのまま討議が再開される。
「アルトダ伍長…。大丈夫ですか?」
「え…」
 部屋の後方、ガフィルダの隣にやってきた女性曹長が、心配そうに彼の顔を見つめていた。
 ガフィルダとは部署が違うものの、彼女とは二、三度、同じ仕事に関わった事があり、それがきっかけで今ではよく話をするようになっていた。
「最近、疲れてるみたいですね」
「す、すみません」
 焦った様子で頭を下げるガフィルダへ、曹長は首を振って答える。
「いいえ。……アルトダ伍長はすぐそんな顔をするから」
「そ、そんな顔って…?」
 どんな顔なんでしょうか、と聞き返す前に曹長が口を開く。
「よく、申し訳なさそうな顔をしてますよ」
 と、彼女は表情を和らげた。前方では深刻な話の最中だけあって、いつもより控えめに微笑んでいた。
「あ」
 自分が疑われていると思ったガフィルダは、その笑顔を見て、小さくため息をつく。
 曹長はその行動にも少し笑ってから、視線を前へ戻した。
「……ナスタ様も」
 彼女が話し合いをするナスタ達を見て、悲しい表情で呟く。
「最近はよくお休みになられていないようで……」
「……」
 ガフィルダも正面を向いて、考えていた。
 最初は信じられなかった。
 あの人物が自分の母を幽閉している事。そして執拗に兄へ目を向けている事。
 だが、あの時の表情が忘れられない。
 確かに今も、その緋色の鋭い瞳が書類と大臣達へ向けられている。
 しかし、あの時、兄へ見せた表情は、明らかにいつもとは違っていた。
「ふぅ。少し休憩にしよう」
 ナスタが書類から目を離し、周囲へ呼びかけた。
「それでは私共も一旦下がります」
「ああ」
 大臣達が礼をして、部屋から退出していく。ガフィルダの隣にいた曹長も、笑顔でナスタへと礼をして去って行った。
「……」
 ふと、最後に残ったガフィルダがナスタを見る。
 ナスタは左手で頬杖をつき、少し瞳をうつむかせていた。
 その机上の書類を一枚だけ軽く指で弾くと、耳飾りのアウランマダーが揺れて、微かな音を立てる。
 ぼんやりと書類を見つめていたナスタの目が、急に歪んだように見えた。


――この方が本当に……


 ガフィルダは何も言い出せないまま、いつものように礼をして、部屋を後にした。



 自分の求めていたものは、一体何だったのだろう。

 自分と血の繋がった、いわば本当の家族に会ってみたいという、ただ漠然とした考えでここへ来た。
そして、その結果、真実を知ってしまった。
 自分自身の事はよくわかっているつもりだったのに、本当に求めているものが何か、わからなくなっている。
 元々、私は現実を受け入れられない人間なのかもしれない。
 アルトダ家にいた頃は、あの厳しい環境をうまく受け入れていたと思っていた。
 だがそれは、自分の望んでいたものばかりが周りにあったからではないだろうか。
 与えられたものに逆らわないよう順応していたのではなく、逆らう必要がなかったのだったとしたら。

 知ってしまった真実にも、このまま、逆らわずにいたいのか。

 ナスタ殿下の瞳。
 全てを見せようとしないその瞳が、ただ怖かった。

 今のままなら、自分はここにいられる。


 私がこのまま、誰にも、何も告げずにいれば……。



「ご用ですか?」
 ガフィルダがある少尉の私室に呼び出された時刻も、あの日と同じような真夜中だった。
 細い椅子に腰掛け、部屋の主が彼へと視線を向ける。
「ええ、そうよ」
 ガフィルダの、事実上は直属の上司にあたる、女性少尉。
 彼女が肘をついていたテーブルの上には、赤ワインの入ったワイングラスと、空のグラスが置かれていた。
 そして一本の赤ワインがある。高価そうなラベルをよく見ると、有名なポートワインだった。
「座って」
 上官が空のグラスの置かれた席を指差す。ガフィルダは無言で一礼をしてから、指示された場所へ腰を下ろした。
「次回の報告会の件ですか?」
「いいえ、今日はプライベート。そう言わなかった?」
「……聞いていませんが」
 ガフィルダが自分の着ているスーツを見て呟く。仕事が終わってしばらくした後にこの事を聞いたため、一度脱いだ制服を再び着てきたのだ。
 上官の方は仕事着ではなく私服である。室内の暗さからよくわからないが、黒い、胸元の開いた服を着ていた。
「でも似合ってるわよ、その服」
「は、はぁ……」
 少し酔っているのだろうか、とガフィルダが首を傾げる。
 執務中に彼女から仕事以外の事を言われた記憶はなく、気付いてみれば今までは勤務外に会う事すらなかった。
 服装が違うせいもあるのかもしれないが、勤務態度にも厳しい仕事場の彼女とは、まるで全く別な人物のように見えていた。
「あの、少尉。なぜ私を……」
「あら。都合悪かった?」
「い、いえ。ですが、もう遅い時間ですし」
「明日はどうせ非番でしょう?」
 上官はそう言って、ガフィルダのグラスにワインを注ぐ。
 明日の会議に出席するようナスタから言われていた事を、ガフィルダは言いそびれてしまった。
 揺れる赤い液体と強いアルコールの香りに、自然と顔が歪む。
「いえ、私は」
「駄目よ。飲んで」
「わ、私は飲めないんです」
「あら、そうなの」
 意外そうに上官が眉を上げる。
 しかしガフィルダが思っていたよりあっさりと、彼女はすすめたグラスを自分の胸元へと引き寄せた。
「すみません…」
 ガフィルダが顔をうつむかせる。
「いいのよ。私が好きで飲んでいるんだから」
 上官はガフィルダへ注いだ方のグラスを手にすると、そのワインを一口だけ飲んだ。
 わずかにその首元から香水の香りが漂う。
「……それより」
 真面目なその声にガフィルダが顔を上げる。そこには彼へ微笑みかける、上官の姿があった。
「……」
 黙っているままでは気まずいので、ガフィルダは何か言おうとしたのだが、うまく言葉を作れない。
 視線を逸らすガフィルダへ、彼女が再び笑みをみせる。だがその笑みは、先程と意味が異なったものだった。
「あなた、何を調べてるの」
「えっ」
 彼女の美しく彩られた唇が揺れる。その口元以上に物を言っているような瞳に、ガフィルダの体が硬直する。
「私が知らないと思った?」
「……」
 ガフィルダは真意を読み取られぬように下を向いたが、彼女の声はそれを許そうとしない。
「上からの指示で調べているわけじゃないでしょう? それにしては内部の事が多いもの」
「それは」
「他の部署も調べていたわね、確か。誰かの情報をリークするつもり?」
「…」
 ガフィルダが無言で頭を下げる。その反応を見てから、上官は再び口を開いた。
「でもね、伍長。あなたをこうやって責めるつもりはないわ」
 意図があるように動かされた彼女の手が、軽くワイングラスに触れる。
「どこにでもあるのよ、黙っていれば済む事なんて」
「…」
 その言葉に、うつむいていたガフィルダの表情が変わった。
 目を開き、握りしめていた自分の両手を見つめる。
「私はあなたの行動を審議するつもりもない」
「…」
「表は単純そうでも、裏では色々考えているもの。……それが、人間でしょう?」
 彼女は席を立たないまま、二つのグラスとワインボトルを横にあったチェストへと移した。
 そして何もなくなったテーブルの上に乗りかかり、正面に座るガフィルダへ、白い手を伸ばす。
「素顔、見せて」
 眼鏡に触れられて、ガフィルダは拒むように彼女の腕をつかんだ。
 彼女はガフィルダの瞳が一瞬だけ鋭く光って見えた事に驚いたが、すぐにまた、微笑む。
「私みたいな女は嫌いかしら……?」
 クスクスと笑う女性の声。気が付けば、部屋全体がワインの濃厚な香りで満たされていた。
「……いえ」
 ガフィルダの曖昧な返事が、彼女の吐息によって塞がれる。その唇も、甘いワインの味がした。
 されるままを受け入れていたガフィルダを、徐々に彼女の腕が包み込んでいく。その指が、誘うように頬を撫でた。
「もしかしてあなた」
「少尉」
「駄目よ、そんな呼び方」
 間近で浮かぶ上官の妖しく美しい笑みを、ガフィルダは瞳を逸らさぬまま見つめていた。
 全ては打算だった。
 素顔を偽っていたとしても、このまま見つめられれば気付かれるかもしれない。
 ガフィルダにはわかっていた。ごく自然に、女性に目を閉じさせる方法を。
 そして、自分の行動を見過ごしてもらうためには、どんな事をすればいいのかを。


 甘い肌と香りを抱いて、普段は知りえない彼女の表情を見つめていた。
 この夜を過ぎれば、ただの上官と部下に戻る。こんな刹那的な慰めでも、苦しみを溶かす薬になるのだろうか。

「どこにでもあるのよ、黙っていれば済む事なんて」

 彼女の言葉に、ガフィルダは心の中で強く頷いていた。
 自分ではどうする事もできない真実を知ったなら、それをただ受け入れるしかない。

「表は単純そうでも、裏では色々考えているもの」

 本当は、全てを忘れたかったのかもしれない。
 当然の事なんだ、と心で決めつけたかった。

「……それが、人間でしょう?」

 その言葉を思い出しながら、ガフィルダは目の前の闇を見つめる。
 重たげな瞳で、この一晩限りの夜に没頭した。
 虚空の光ばかりを求めるように。



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