【アルトダ・ガフィルダ】
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疲れた体に染み入ってくる新鮮な空気。それは息を吸い込むと妙に冷たく、張り詰めていた。
廊下に出たガフィルダは、音を立てぬようゆっくりと、少尉が眠る部屋のドアを閉めた。
いつも人前では脱がないジャケットを腕にかけ、着ている白いシャツにはしわが見える。第一ボタンを開けている事も、彼にしては珍しかった。
背中をドアへ寄りかからせて、ようやく、ガフィルダは深く息をつけた。頭を上げ、ぼんやりと前の壁を見つめる。
「……」
昨夜の事を考えると頭が痛くなる。
これで、よかったのだろうか。
あの上官とはこれからも顔を合わせるだろう。いつ再び、自分にこんな関係を持ちかけてくるかわからない。
だが、改めて考えてみると、頭痛をもたらすのは上官へ対する不安ではなかった。崩れかけている自分に、頭が痛い。
昨夜も今も、酸欠のように何かを求めている気がしていた。
あの夜、彼女の方から誘ってきたとはいえ、ガフィルダ自身も求めていたのかもしれない。ひと時でいいから、全てを忘れていられる時間が欲しかった。
「(全てを忘れる、か)」
ガフィルダが下げた腕を少し動かす。微かな重さを感じ視線を落とすと、革ベルトの腕時計が目に入った。
アルトダ家の養子になってから数回目の誕生日に、義父から貰ったものだ。
「あ。今日は……」
ふと、その白い文字盤を見てガフィルダが何かを思い出す。
「朝から会議だったっけ」
呆けた声で、小さく呟いた。すっかり忘れていたようで、口から出た慣れない声がおかしくて、自分でも笑ってしまいそうだった。
まだ日が昇ったばかりだというものの、城内が動き出す時間は早い。ガフィルダは後ろ髪を少し整えると、すぐにジャケットを着て歩き出した。
昨晩の事を忘れるためか、少し思い切って複数の用件を一気に頭の中で巡らせてみる。
今日の会議で使う書類について。
「(全部チェック済みのはず)」
昨日作成した報告書について。
「(少尉にお願いしてサイン貰わないと)」
頼んでおいた発注品の資料について。
「(午前中ならつかまるかな。いつも執務室にいないから困るんだけど、文句は言えないし)」
技術部からの催促と苦情について。
「(納得してもらおう。今日こそ)」
通信機器の動作不良について。
「(連絡してくれたか聞いておかないと)」
気象データの照合依頼について。
「(もう少し書き足してから、できれば今日中に)あ……」
二階の、比較的長い廊下を歩いていた時だった。ガフィルダが丁度、その中央で足を止める。
横に伸びているテラスへの道から、光が差してきていた。いつもは閉ざされている小さな扉が、少しだけ開いていたためだ。
「(閉め忘れ? それとも誰か)」
ガフィルダは特に意識せず扉へと近付く。
白い塗料が塗られている錆びた鉄製の扉が、朝日に照らされ、暗い廊下へと明るい光を放っている。
ガフィルダが軽く扉を動かすと、古い音を立てて外への道が開けた。そのままテラスへ足を進める。
ガフィルダの体は、朝の白い光と心地よい風に包まれた。
その光は目をつむる程は眩しくない。
朝霧がぼんやりと木々や建物を覆う、幻想的な景色。あまりにも静かで、霧を飛ばしてしまわぬように、風が優しく吹いているようにも思えた。
「!」
ガフィルダはその景色の中に人影を見つけ、体を硬くさせる。人物がいたのはテラスではなく、テラス下の、城の裏手にあたる所だ。
通常ならばそのような場所を歩くのは使用人か下働きの者だろうが、この時は全く違う身分の者であった。
「ふぁああ」
大きく口を開けて、それはさながら猫のあくびのようだ。息を吸い込むように伸びをしながらその人物が城へと歩いてくる。
ガフィルダは心の中で、小さく思った。
先程、誰にも気付かれぬように部屋を出てきた自分とは、状況も態度も正反対だ。
あの人物は誰へも遠慮する事はない。自分のように正体を隠す必要すらないのかもしれない。
「コニスの奴。また怒ってたな」
朝日が当たる金色の髪に、眠そうな青い目。装飾が少なめの服を着ているが、ガフィルダにも見間違う事はない。
「(シザーク様……)」
明け方とはいえ行動が無防備過ぎる、とガフィルダは感じた。単身で街に出ていたのだろうか。付き人もつけず、変装も一切せずに。
「(街へ遊びに行かれているとは聞いてたけど……)」
夜、シザークが城から無断で抜け出し、街へ行っているという話は前から聞いていた。
ドアの外で警護するSPに気付かれないよう、窓から出入りしているという事だったが、どこで何をしているかなど、具体的な話は聞いていない。
恐らく、誰も知らないのではないかとガフィルダは考えていた。彼の行動は、時々予測できなくなる。
下を見ると、ぼんやりと街の方を眺めるシザークが目に入った。
「(シザーク様はなんでも気ままにお考えなのかな)」
自分自身の身分も責任も、シザークは全てわかっているはずだ。だからこそ、あんなに無防備で、自由でいられるのだろうか。
彼が動けば、その周囲にいる人物も彼のために動くのだから。
――お前はシザークのため……私の弟のために生かされている
不意にあの時の、ナスタの言葉を思い出してしまった。ガフィルダの目が辛そうに歪む。
その目に映し出されているのは、皇太子であるシザークの姿だ。自分の母の腕に、抱かれたであろう人物。
ガフィルダはシザークから視線を逸らした。眼鏡を軽く押え、下を向く。
「(……会議に遅れる)」
来た道を戻ろうと彼がシザークへ背を向けた、その時だった。
「いるんだろ」
「!」
再び、ガフィルダの背が凍る。慌てて振り返ったが、シザークはテラスを見上げてはいなかった。テラスの下の辺りを、やや不機嫌そうに見つめている。
そこは城の裏口がある場所だった。
「おはようございます、シザーク様」
シザークの声に少し遅れて返事がある。その声は、ガフィルダがいつも聞いているあの声だった。
「(コールスリ准尉!)」
草を踏む音がして、ようやくテラスにいるガフィルダにもその姿が見えた。
SPの制服を着たカルナラはシザークの前へ進み出ると、左腕を自身の胸へ付け、いつものように頭を下げる。
「いえ、おかえりなさいと言った方がいいですか? 今朝は早いお帰りですね」
「カルナラってイヤミ〜」
微笑するカルナラへシザークが口を尖らせる。
「嫌味はどちらですか。また我々の目をかいくぐって……」
今度はややきつめの言葉。それに反論するようにシザークが声を上げる。
「昨日は街で遊んでなんかないって!」
「コニスさんのところですね」
「うっ」
どうして知っているんだ、と彼は声を詰まらせた。
「あなたの言動はわかりやすいです」
「えー……」
口をへの字に曲げてシザークがカルナラを見る。"わかりやすい"という言葉が"考えが浅い"という風に聞こえたのか、シザークは不服そうな顔だ。
「私が交代する時間の前後、急に笑顔になったでしょう?」
「笑顔?…そーかな、いつもと変わらないと思うけど…」
昨日の事を思い出そうとシザークが空を見上げる。
「(見つかる!)」
テラスにいたガフィルダは慌てて後退した。
「うーん」
シザークが何も言わないところを見ると、ガフィルダの姿はまだ見つかっていないのだろう。
ガフィルダはそのまま、彼等の声だけを聞く事にした。この位置ならばシザーク達から見つかる事はないが、こちらからもその姿を見る事はできない。
「すぐわかりますよ」
「そ、そうかな」
優しく微笑みかけるカルナラ。それに対し、シザークは照れながら頬をかいている。
その光景を、ガフィルダは言葉のみで感じ取っていた。
「ええ。気付いていらっしゃらないかもしれませんが、こっそりと街へおいでになる時は、少し得意げな顔をしているんですよ」
「は? 得意げ?」
「そうです。……言葉で表すなら……"悔しかったらお前も遊んでみろー"でしょうか?」
「うわっイヤミ〜〜! そんな顔してないって!」
「私の思い過ごしですか?」
「思い過ごし! オレはそんなイヤミな奴じゃないし、人の後をつけてきて、ベッドを覗くような趣味もない!」
「(ベ、ベッドっ?)」
腰に手を当てて断言するシザークに、カルナラが顔を赤くする。
コニスとシザークの事を知らないガフィルダは、想像だけでその台詞を判断し、彼もまた顔を赤くしていた。
「な! わ、私は趣味でやっているのでは…! それよりもお気付きだったんですか?!」
「……うん」
シザークから返ってきたのは、カルナラとは対称的な小さい声だった。
「……シザーク様?」
その変化に、カルナラが思わず彼の顔を見つめ直す。
シザークはゆっくり息を吐くと、カルナラへ笑顔を返した。
「それでも見過ごしてくれてるんだろ? オレがコニスんとこに行ってるの」
「……」
「よかった……カルナラがお人好しで」
先程のおとなしさはどこへいったのか、シザークの顔に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
それを見たカルナラは一瞬だけ口を大きく歪ませると、すぐ真顔に戻ってシザークへ背を向けた。
「昨晩の事、夜勤のSPに報告します」
と、彼にしては珍しく冷ややかな声が飛ぶ。
「え!」
「ナスタ様のお耳にも入れておかなければなりません」
「カ、カルナラ?」
「シザーク様、すぐ準備してください。もう会議の時間ですよ」
「ちょっ、ちょっと! カルナラっ」
だんだんと遠ざかるカルナラを追いかけていくシザークの声と足音。
姿を見ずとも、ガフィルダにはわかっていた。シザークがどんな顔をしていたのか、カルナラがどんな風にシザークを見つめていたのかを。
二人の姿を想像したガフィルダは、何も言わず、瞳を閉じる。
「(准尉はわかってるんだ……)」
カルナラがシザークの行動はわかりやすい、と言っていた事を思い出した。
きっとそれは、長い間シザークと共に生活しているからなのだろう。
ガフィルダにはシザークという人物像がまだつかめない。彼とは会議の時ぐらいしか会わないからかもしれない。
だが、つかめない理由は彼を見てきた時間が短いからではないだろう、とガフィルダは思う。
自分とは正反対の人物だからだ。その境遇も、その性格も。同じだといえる部分があるならば、年齢ぐらいなものしかない。
「どうして……」
そう、ガフィルダが小さく呟いた。
それは彼がSPで、要人に仕えるべき人間だから?
それはあの人物が直情で、わかりやすい性格をしているから?
それとも、自分の母親を幽閉されているから……?
「どうして………あんなに……」
シザーク様の事を、わかってあげられるんだろうか……
「カルナラ!」
今朝の事をぼうっと考えていたガフィルダの前を、聞き慣れた声が飛んだ。
「何ですか、シザーク様」
「この間預けたヤツ、すぐ返して! 今日持っていくから」
「はい?」
勢いよく手を差し出され、何の事を言われているのかわからないカルナラが首を傾げている。
「ほらほら! 前に頼んだじゃん! もー、年は取りたくないなぁ〜。物忘れ激しくなるから」
「……覚えてますよ」
シザークの挑発には乗らないようだ。カルナラが冷静な面持ちで言葉を続ける。
「私の部屋に置いてあります。会議が終わりましたら、お持ちいたします」
「終わってから? あー! オレは会議に出る必要ないのに!」
休憩中の会議室に響くシザークの声。
半ば強制的に、彼も会議に出席させられている。たいがいは会議室の入り口付近に座り、会議中もつまらなそうにしている。
その後ろに付き人が控えるため、カルナラは丁度、ドアの真横に立っている事が多かった。
「必要ですよ。今、国がどのような状態にあるのかを、シザーク様は知っていなければなりません」
「そういう難しい話はナスタの専門だろ?」
シザークは首を縮めて会議室の前方に目をやった。
鮮やかな壁画の前で、国王代理であるナスタが大臣達と話をしている。今は休憩時間だが、表情は皆、真剣なままである。
「シザーク様は皇太子殿下なのですから」
「……」
いかにも不機嫌だと言わんばかりの顔だ。シザークは椅子に座り直し、机を隔てて向こう側に座る、まだ眠そうな役員達を見つめる。
そして正面を向いたまま、後ろに立つカルナラへ声をかけた。
「あの本、リサラにあげようと思ってたんだ」
「そうだったんですか。てっきり、読むのが嫌で私の部屋に置いていったのかと」
「この間リサラに話したら、読みたいって言っててさ。本、読むの苦手だって言ってたけど、物語は好きみたいだな。女の子だなー」
机に頬杖をつき、シザークが顔をほころばせる。
机上に置かれた書類はきちんとまとめられているが、これはシザークが一度も資料に目を通さなかったからである。つまり、配布された時のままだという事だ。
「早くリサラに会いたいな〜」
「シ、シザーク様…」
上機嫌で鼻歌を歌い出すシザークへ、カルナラがやや小さく声をかける。
「知ってるか? リサラって笑う時、こうやって…」
「…あの…シザーク様…」
「トノダさえいなければっ!オレはもっとリサラに…」
「シザーク!」
「わ!」
突如、背後から聞こえた声に、シザークが背筋を伸ばす。その声を聞いた時点で、誰がいるのかは既にわかっているようだった。
恐る恐る振り返ると、やはり後ろにいたのはナスタであった。座っているシザークを見下げるような状態で、ナスタが言葉を続ける。
「昨晩はどこへ行っていた」
「え…!」
シザークはついナスタの横にいるカルナラへ目をやった。彼は無言だったが、首を横に向け、何かを否定しているような仕草を見せる。
「…あ、ああ…どこも行ってないけど?」
「大臣達からも問題だと言われている。お前は行動が軽率過ぎる、とな」
「軽率って言われても……」
ナスタの言葉から逃げるように、シザークは視線を部屋の前方へと逸らす。渋い顔の上級大尉や准将達と目が合って、再び視線を戻した。
「もしお前に何かあったら、国王も悲しまれる。私も、悲しい……」
その緋色の瞳が辛そうに歪んだ。
「ナスタ……」
ナスタの表情を見て、シザークも申し訳なさそうにうつむく。
「皆はお前の事を心配しているんだ。わかったな、シザーク」
「……うん」
シザークがただ、首を折る。
と、急にナスタの顔付きが変わった。口元に笑みを浮かべながら、両手を腰へ当てて言う。
「よし、決まりだ。今度無断で外出したら、一週間お前の外出を禁止する」
「は?」
「カルナラ、聞いたな」
「はい、ナスタ様」
ナスタの言葉に対し、カルナラが素直に頷く。
「え? えええっ? ナスタ! そんな〜!」
「それが嫌なら、無茶苦茶な行動は慎むように。わかったな」
意気揚々と笑っていたナスタも、最後にはシザークへ微笑んでみせた。そして「少し出てくる」とカルナラの前を通り過ぎる。
扉を開けたのは、ドア付近に待機していたカルナラだった。
「……カルナラ」
「…」
その一言に彼は無言で頭を下げると、じたばたと絶叫し続けるシザークを置いて、ナスタの後を追うように廊下へ出る。
まだ朝の空気が立ち込める廊下はひんやりと冷たい。人が多い会議室とはかなりの温度差があるように思えた。
「シザークを連れ戻さずに一人で戻って来たのか?」
「……いえ。少し離れた場所で待機していましたが、シザーク様と合流はしませんでした」
責めるようなナスタの口調に、カルナラがうつむく。
「危険はないと判断しました。逆に、私がいる事でシザーク様の存在を気付かれる可能性もありましたので」
「ギアン・コニスのところか」
「……」
カルナラは肯定も否定もしない。だが彼の顔を見たナスタが、少しだけ笑みを浮かべる。
「あんな街外れまで」
顔は笑っていたが、それは深い思案を隠しているようでもあった。そのような時の目はいつも、冷静で鋭く、そして重たい雰囲気を見せる。
ナスタはゆっくりと足を進め、大きな柱へと手を伸ばした。指を立て、そこに微かに刻まれている竜の紋様を撫でる。
「いつ何が起こるかわからない。お前はシザークを」
言葉を切り、ナスタがカルナラへ振り向く。
「……わかっているな」
ナスタは彼を見つめ、冷淡に笑いかけた。
「……はい」
二人以外誰もいない廊下に、その声だけが響く。
「お前といると、よく昔を思い出す。ずっとあいつの近くにいると、どうだ?」
目を閉じてナスタが問いかける。その笑みは自嘲気味なものへと変わっていた。
まるでカルナラの返答を予期しているかのように。
「……お変わりありませんね。まだ幼い子供のようです」
カルナラがそっと口元を緩ませる。
シザークも自分のように、いつもナスタから叱られていた。もちろん叱られるのは今もだが、よく些細な事でナスタを怒らせ、泣いていたシザークを思い出していた。
「よくあなたに叱られて、泣いていました」
「……そうだな」
カルナラの笑みを見つめながら、淡々とナスタが相槌を打った。
「!」
と、突然、カルナラが顔を上げた。
人の気配に左右を見渡すと、開けられたままだった会議室の扉が微かに動いたのが目に入る。
ナスタもそれに気付き、瞳を鋭くさせる。
「そこに誰か!」
カルナラが扉へ駆け寄る前に、そこから、ある人物が姿を現した。
「アルトダ伍長?」
名前を呼ばれ、廊下へ姿を見せたガフィルダがカルナラの方へ目を向ける。彼は焦りの色を見せたまま、カルナラとその後ろにいるナスタへ頭を下げた。
「す、すみません…」
「どうした? 何を謝る」
ガフィルダの態度が気になったのか、ナスタが扉へと近付く。
「い、いえ」
「……」
うつむいた彼を、ナスタは怪訝そうな目で見つめている。その視線に気付いたのか、慌てた様子でガフィルダが口を開いた。
「執務室に重要な資料を置いてきてしまって」
「もうすぐ会議を再開する」
「は、はい! 間に合うように戻ります」
そう一礼をして、ガフィルダがナスタ達とは反対の方向へと走って行く。
「……」
ナスタは彼の姿が見えなくなるまで、ずっとその方向を見つめていた。
「……カルナラ」
姿が見えなくなってから、ナスタが呟く。
「はい?」
「彼は確か……」
「アルトダ・ガフィルダ。アルトダ伍長ですが。彼がどうかしましたか?」
「……アルトダ、か」
再び、ナスタの目が真紅の色を放った。何を考えているのかわからないような瞳。
カルナラはその表情を見つめ、少しだけ顔を歪ませる。
だが、すぐにナスタは目を閉じると、肩の力を抜くように軽く息を吐いた。
「いや、なんでもない。考え過ぎだ」
前髪をかき上げ、その長い後ろ髪を揺らす。
「シザークのような弟を毎日見ていると、アルトダのような人間が珍しく思えてくるのかもな」
「そうですね。彼はとても真面目ですから」
苦笑するナスタにつられるように、カルナラも目を細めて笑う。
「……ああ。本当によく働いてくれる」
そう言いながら、ナスタは会議室の扉に手をかけた。
動作を止め、入り口付近の椅子の上に足を組んでぼーっと座っているシザークを見る。
そして、一度だけ緋色の瞳でその後ろ姿を睨み付けると、表情を戻して中にいる者達に声をかけた。
「アルトダが戻り次第、会議を再開する。各自、席に付け」
廊下の隅、ナスタとカルナラからは見えない位置に、ガフィルダはずっと身を潜めていた。
ここから会話を聞き取る事はできなかったが、ナスタが見せたあの表情には見覚えがある。
あの夜も、それ以降も。
カルナラの前で度々見せる、あの冷めた目。それは決まって、シザークの話題が出ている時だ。
「(ナスタ殿下……)」
あの表情を見て、ガフィルダは直感的に思った。
「(まさかシザーク皇太子殿下を……)」
もしナスタが、シザークへ何らかの負の感情を抱いているとしたら。
それが母と兄を苦しめる事と関係しているのではないか。
シザークにとってナシムは乳母であり、カルナラはシザークの又従兄弟だ。そして付き人として、常に行動を共にしている。
――全ては皇太子殿下を苦しめるためなのか。
ガフィルダはナスタの正直な気持ちを聞いたわけではない。
その事を自身でもよくわかっていたし、自分の考えの決め手となる根拠もなかった。
だが、ガフィルダが確信したのは、ナスタの負の感情に、カルナラが飲み込まれそうになっているという事だった。そして、まだ見ているだけの自分自身さえも。
「(もしこれ以上探れば、私もナスタ様に……)」
自分を消す事に、ナスタが迷うとは考えられない。
カルナラや自分が行動を起こせば、恐らく犠牲になるのは自由を奪われている母だろう。
もし、ナスタの負の感情に飲み込まれず、反対に打ち消す事ができる人物がいるとしたら。
それは、ナスタ自身が守らせている者。
「シザーク……様……」
ガフィルダの脳裏に、カルナラと共に笑うシザークの姿が映し出される。そして彼の横で微笑む、カルナラも思い出した。
二人はただ、支配する者と従う者ではないのかもしれない。
ガフィルダはそのような関係を、何人も見てきた。
先程のナスタとカルナラのように、どちらかが命を下し、どちらかがそれに無言で従う。
ガフィルダにとって、このような関係は珍しいものではなかった。反対に王族と従者の関係は、皆こうであろうと考えていた。
だからこそ、シザークの事が不思議でならない。あんなにも心を開き、素直にカルナラと接している。
そうする事を自ら望み、また、カルナラにもそんな態度を取るよう望んでいるかのように。
「きょうだい…か」
ガフィルダはそう呟いて、そっと眼鏡を外した。
顔は似ていても、境遇が全く異なり、互いを知らないきょうだいがいる。
血が繋がっていても、一方が相手を憎み、その感情を隠し続けるきょうだいもいる。
だが、本当のきょうだいではなくとも、互いを支え合える関係を築ける者達もいた。
その者達が持っているものは、ガフィルダが暮らしてきた中では見る事ができなかったもの。
まるで、あたたかい"光"のようなものだった。
ガフィルダ自身が探していたのも、そんなあたたかさだったのかもしれない。
「でも、私には……」
現実を思い出したのか、ガフィルダは眼鏡をかけ直した。
――兄に 私の事は話せない
これ以上苦しみを増やすなんてできない
そう、自分の心へと言い聞かす。
それよりも……
ガフィルダは予めスーツの内ポケットに用意しておいた資料を何枚か取り出すと、足早に会議室へと戻っていった。
――今 必要なのは "光"……
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竜棲星